世界との出会い67(オノマトペ)

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⚫︎日本人は、犬が吠えるのをワンワンと言うが、実際に聞こえてくる犬の吠え声は、日本語にはならない音声(✖️🔵△◎?!)である。この音声は、日本語の中では、慣例的にワンワンという、オノマトペとして犬が吠える音声を表す。英語ではbow-wowのように別の音声が割り当てられる。何か他のものを指示することはないという意味で、自己言及的な記号である。

⚫︎英語及びその他の言語にも、オノマトペは存在するが、日本語は特に多い印象がある。擬音語・擬態語があるが、韻を踏んだり繰り返す表現がいきいきとした表現を生み出す。

「雨がしとしと降る」、「猫がにゃーにゃー鳴く」など。


世界との出会い66(総合的含意)

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⚫︎スペルベルとウィルソンの『関連性理論』

というコミュニケーションの理論の中に、分析的含意と総合的含意という概念が出てくる。分析的と総合的という区分はグライスを通ってカントに由来するものだが、分析的判断は、本来、ある概念の中に元々含まれるている意味を取り出す作業であり、総合的判断は、ある概念の中に含まれるといるというよりも、概念を他の概念と統合して生み出す作業である。コミュニケーションにおいても、新たな外延を生まない分析的含意と、以前は存在しなかった判断を含む総合的含意が存在する。コミュニケーションにおいては、発話の当事者同士に背景知識が必要だが、そのような知識は、チャンクと呼ばれる塊のかたちで、記憶装置の中に保存されているという。

チャンク同士が結合した時に総合的含意が生まれることになるが、それはその時に捉えないと二度と出会えないかもしれない。簡単に言い換えると、どんな小さな閃きでも、メモっておいた方がいいと言うことだろう。もう二度と出会えないかもしれないから。

⚫︎ところで、人工知能は、トートロジー的な分析的判断ではなく、創造的な総合的判断ができるのだろうか。それとも、この超優秀なマシンからすれば、人間が、「創造的」と考えることも、陳腐な戯言に過ぎないのだろうか。

世界との出会い65(言語の学習)

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⚫︎言語の学習、言語使用の訓練はいつ何処ででもできる。一日中一言も発しない人はほとんどいないのではないか。人の話を聞き、喋るときや、本や新聞・雑誌を読む時は、誰にも訪れる。その気になれば、4技能を磨くチャンスは、ここそこにある。

(We can learn how to use languages everytime and everywhere. There are few people who utter hardly a single word all day long. The time comes to everyone when he or she listens to and speaks with others and reads books, newspapers and magazines and writes down something. If we want, we can get chances to brush up the four skills here and there. )


世界との出会い64(自己のコントロール)

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⚫︎他の存在をコントロールできないのは、自己の存在をコントロールできないからである場合がある。(There is the case in which we cannot control other beings because we cannot control ourselves.)もちろん、自己の存在をコントロールできても、他の存在をコントロールできない場合はある。(Of course, there is also the case in which we cannot control other beings even if we can control ourselves.)





世界との出会い63(両義性)

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⚫︎曖昧なものと、曖昧でないものつまりはっきりしたもの とのバランスを取ることが、大切ではないだろうか。現実に起こっていることというのは、概して曖昧なものである。効率を追い求める管理社会においては、はっきりとしたことが優先されがちで、曖昧なものは切り捨てられることが多い。昨今は、

曖昧なものへの耐性も低い。はっきりしていないと気がすまない人も多いのではないだろうか。もちろん、はっきりしていないと困ることもあるが、それが全てではない。両義性へ正当な認識を忘れてはならないと思う。事態の変化の真相は、(白⇄黒)のような比喩で表されるのではなくて、(白⇄薄い灰色⇄灰色⇄濃い灰色⇄黒)のような比喩で表されるのである。


世界との出会い62(評価について)

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⚫︎評価ということについて考えてみると、様々なものがある。

・自己評価(自己による自己の評価)と
他者評価(他者による自己の評価)
絶対評価(自己内での比較による評価)と相対評価(自己と他者との比較による評価)
・結果評価(達成された結果による評価)と過程評価(結果に到達するまでの過程を見る評価)など。
・資本主義という体制は、評価と強く結びついている。競争原理によって展開していく制度だから、当然のことだろう。価値観の多様化によって評価も多様化しているように見える一方で、あまりに単純な経済的評価基準が幅を利かせているようにも見える。例えば、お金をたくさん払えば直ちに良いサービスが得られるとか。今、マインドフルネスという概念で示されるような「今ここ」における命の充実というような評価基準が様々な領域に浸透していくことを望みたい。

世界との出会い61(問題解決について)

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⚫︎いわゆる「頭の良さ」と記憶力の関わりは深い気がする。何故なら、問題を解決する際に、人は知識を活用するが、その知識は、記憶によって脳内に保持されているようだからである。単純な問題を解くには、殊更、大量の知識は必要ないかもしれないが、複雑な問題を解くには、それ相応の量の知識がいるのではないか。但し、問題を解こうとする意欲や情熱が無ければ、いくら知識が豊富でも問題は解けない。問題解決には、更に、判断力や構成力や計画力なども絡んでくるので、単にスタティックな問題ではない。非常にダイナミックな問題である。